小説には書けないあれこれ

小説家・蓮華のブログです。触れた作品や文学・小説・音楽・アートなどについて考えたことを書いていきます。

人間はあした地球が滅ぶとわかっていても、きょうリンゴの木を植えなきゃならない 〜 樹木希林という生き方

『樹木希林120の遺言 死ぬときぐらい好きにさせてよ』樹木希林(宝島社)

樹木希林120の遺言 死ぬときぐらい好きにさせてよ』樹木希林(宝島社)

記事タイトルは乳がんが見つかった後にその心境を問われて答えた彼女の言葉だ。もしも彼女のような女性が、たとえば自分と同じ年齢で近くにいたとしたら、自分はどう思うだろうか。個性的すぎて、とても手強そうで、もしかしたら怖い人だと思うかもしれない。

 

樹木希林の凄みというのは、自然体であることから来ているのだと思う。他人と自分を比較せず、自分をありのままに捉えて、その通りに生きるというのは、難しいことだ。

自分の判断を超えるものに対して、拒否したり溺れたりしないでもう少し自然でいたいなあと思うのね。

だって、それほどわたしは強くも弱くも偉くも駄目でもないんだもの。

自分自身にたいしてこのような態度を取れるだろうかと私は思う。それでいて彼女は、自分の人生に消極的でもなければ悲観的でもない。ただ単に執着しないのだ。

有名になりたい、賞が欲しいといったこともなく、そうなったからと言って自分を見失うこともない。そこそこ食べていけてそこそこ面白いことがあればいいと言う彼女は、人生は満ち足りないものであり、それが人生であるということを受け入れて生きてきたように見える。

人間なんて正しくないんだから

そう言ってしまえる彼女は、一方で、人間という小さな存在を面白がり、いじらしいと思っている。この一言には、樹木希林という生き方のたくさんが詰まっていて説得力がある。

 

左の写真は47歳当時の樹木希林

左の写真は47歳当時の樹木希林

 

もう一つ印象的だったのは、自分の子供との接し方についてだ。

娘は九才なんですけど私の母と主人の母が亡くなったときに、普通は遺体は子供に見せないんですけど子供が顔を見たいって言うんで”見なさい”って言って見せましたね。

そうすると白い布をあけて撫でてるわけ。私は現実に死ぬということをさわってみるということがいいなあと思ってね。私の教育っていったらそれくらいのものです。

自分が「現実に死ぬということをさわってみる」という経験をしたのはいつだろうか。私の場合は大人になってからだ。幼いころに祖父の葬式に自分がいた記憶があるが、触れた記憶は無く、祖父が白い服を着て寝ていた光景くらいしか覚えていない。

近い距離にいる親しい者の死というのは、自分自身の一部がある日を境にこの世から消えてなくなるという経験だ。それは、たとえば子供のころに虫取りや釣りなどを介してさわった生物の死の感触とは違っている。 

死というものを日常にしてあげたいなと。子供たちに、孫たちに。そうすれば怖くなくなる、そうすれば人を大事にする。

彼女は子供に対しても、一人の人間として自然体で接する。家にケーキを買って帰ってきた時も、子供に取らせるのではなく、私が一番最初だからねと自分が最初にとるようにしていたという。世の中に出た時に最初に取らせてもらえることなど無いからだ。

 

わたしはわたし、あなたはあなた、という態度がここにも見てとれる。

基本的に、人はひとりきりなのだ。

そして、他人を大切にするということは、あなたとわたしの境目がしっかりとあり、だからあなたはあなたでいていいのだという態度に根ざすものなのではないか。

 

彼女の女優としての演技を観る時に、どこか突き放しているようでけれど温かみがあるのはそういう一貫した彼女の芯が見えるからなのだろう。 

わたしはわたし、の後に、あなたはあなた、だと言ってくれる。

 

最後のページの言葉も彼女らしいと思ってしまう。
ぜひ読んでほしい。

樹木希林 120の遺言 ~死ぬときぐらい好きにさせてよ (上製本)

樹木希林 120の遺言 ~死ぬときぐらい好きにさせてよ (上製本)

  • 作者: 樹木希林
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2019/01/28
  • メディア: 単行本
 

 


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天上の花、地上の月 (民明書房)

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