小説には書けないあれこれ

小説家・蓮華のブログです。触れた作品や文学・小説・音楽・アートなどについて考えたことを書いていきます。

女であることの苦しみの言語化、豊かな孤独 〜 三浦瑠麗の記録

『孤独の意味も、女であることの味わいも』三浦瑠麗

『孤独の意味も、女であることの味わいも』三浦瑠麗

私たちは普段、「孤独」というものがおもに男性のものであり専売特許であるように思っている節がある。だがそれは単に女性がわざわざ孤独という言葉を使わないからでしかない。

むしろ男の孤独とは大抵、貧弱で幼稚な感傷を美化して言うことが多い。それは脆弱な赤ん坊が乳をねだるような欲求に似ている。

対して、女の孤独とは、実際に乳を求められることの孤独であり、さらには女であることを求められてきた孤独である。

昼は授乳しながら片手でパソコンのキーボードを叩いて、自宅で仕事をした。髪はめったに洗えず、毎日が三時間睡眠だった。髪は触るたびに、掴めるほど抜けていった。哺乳瓶を拒否した娘は、どうしても二時間おきにはお腹が空く。授乳しながら気が遠くなるように寝入ってしまうこともあった。

夫にも誰にも助けを求められずに育児を一手に担うことがどれだけ大変で孤独なことなのか。赤ん坊がどれだけのエネルギーで暴れ、予測不能であり、脆弱であるか。束の間でも目を離せば命に関わる事故を起こす、高熱を出す、放っておけばとても生き延びれないそんな赤ん坊であった自分がいかにそこを通過できたのか。

知らないのは、多くの母親たちが何事もないような顔をしてくれてきたからだ。

(スーパーに買い出しに行くたびに)私は歯を食いしばって大量の荷物を持って歩いた。(中略)ビニール袋の取っ手が破れそうに細くなって掌に食い込み、何キロもある娘の身体が私の重心を下げた。私は道すがら歩数を数えるようになった。次の電柱まで、次の街頭まであと少し。(中略)

こめんね、と私はなぜか声に出して娘に言った。こんな生活でごめんね。(中略)ひとりぼっちで育児をしながら、私は娘にひとり言を言うようになった。私はとても幸福で、とてもさみしかったのだ。

どこにでも無数にいるありふれた母親たちが実は男には想像できない苦労と痛みと孤独を通過している。そして母親の数だけその孤独がある。

 

私はこの本はまず、女の苦しみの体験を経験していない者にも想像させられる記録として広く読まれるべきだと思った。

三浦は、上で引用した四六時中おんぶにだっこして育てた次女を産む前に、長女である珠を死産している。人として認められるぎりぎりの二十二週で生まれてきてすぐに息を引き取った娘は、生きた赤ん坊のようであったという。

珠は自らの意思を持っているかのように、しっかりと産道を降りていった。胎内から出ていくときに私は、珠が生きているに違いないと錯覚した。あれが私に残された唯一の感覚だった。だから、そのあと抱いたときのことよりも思い返してよっぽど心に迫るのは無理もないかもしれない。

こういった身体感覚を伴った描写がいたるところに現れる。三浦は国際政治学者であり今日ではテレビ・メディアに露出する機会が多い女性だが、そこで男性相手に時事の見解を語り議論をする姿からすると意外な文章に見えるかもしれない。

だが、この本を読んでみると彼女の言葉は論理的である以上に人間的であることに気づかされる。そして文中でも、身体的で通り過ぎやすい小さな機微の洞察が言語化されているのだ。

たとえば、祖母が自分を見ながら母親に耳打ちをしているのが目に入った、その小さなことが心に引っかかり続ける。後で母親から聞いた話では、ジャンパーを腰あたりできゅっと結んで巻いていたのを見て「あの子はやっぱり何か違う、気をつけなさい」と祖母が言ったのだという。女であるために自分の身体に向けられる他者からの視線は、幼い女子であるときからずっと付き纏っている。見ている側以上に、見られている側が気づいているのだ。

あのとき、私は女になったのだと思う。社会的な意味での女というのは、おっぱいがついているということでもなければ、おしりが丸いことでもない。あなたはおっぱいがついているよ、と知らされることであり、おしりを見られることである。そして、私たちは一つずつ動作をちいさくすることを学ぶ。不本意な擬態の陰に隠れて、女は外側の世界を覗き、人に好かれようとするものだ。

また、この本の中で三浦は、自身が中学生のときに性被害にあったことを告白している。

あんずの木の下で、隠れるように外水栓の水で顔と手を洗った。制服を脱ぎ捨てたのち、手負いの狼のように私は炬燵のなかで唸った。下腹部の痛みが尋常ではなかった。手でさわると血がついた。

本のタイトルからすれば想像し難い内容かもしれない。ちょっとしたエッセイのように見せる表題だが、女であることの味わいに変わる前にあったのは、女であることの苦しみであり、それが言語化された貴重な読み物であると思う。

 

もう一つ、私はこの本を読み始めてすぐに、アン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈物』を思い出した。

夫と五人の子供たちと共に郊外に住んでいたアンが、世間からも家族からも離れて一人だけで過ごした二週間を書いたエッセイだ。アンはそこで孤独のことを、成熟しない者の痛みとしての孤独ではなく、自足した一つの世界になることとして、豊かな孤独として見出している。

この本を読んでいて出会ったのもまた、そういった豊かな孤独の一つであった。

いつしか私は孤独をむしろ大事にし、求めるようになった。その結果、人にひたすら尽くすということはなくなった。母は、自分を犠牲にすることが愛情の証明だと思っているように見えた。けれども、そんな自己犠牲はいらないと私は思ったのだ。いつも扉を開けて誰かを待っている必要はない。私は休息所ではない。ここは私の部屋なのだから。

女もまた男と同じ、一人の人間なのだ。

それは言葉にすれば当たり前のことだが、女自身でさえも忘れてしまいがちな大切な事実だ。

そして、だが女は、一人の人間である前に女なのだ。

女特有の苦しみは、女である以上は「本質的に逃れる術」が無いように思える。だがそれは一人だけで逃れるべきものではなく、女と男の理解によって緩和されるべきものだ。

それは何も言わない女たちが自分以上の苦しい経験をしているという想像力であり、実際にそうであるということを身体感覚とともに考えることだ。


この本は女のために書かれたということ以上に、男たちのために書かれたものであるように思う。

 

孤独の意味も、女であることの味わいも

孤独の意味も、女であることの味わいも

  • 作者: 三浦瑠麗
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/05/17
  • メディア: 単行本
 

 

 


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