『山月記』は高校の教科書にも掲載されている短編小説だ。青空文庫でも無料で読むことができる。漢語調だが書き下し文になっており、文量も少ないのですぐ読める。
人間である時間と虎である時間
あらすじとしては、詩人として名を馳せようとしたが叶わなかった男・李徴(りちょう)が虎になってしまい、旧友の袁傪(えんさん)と再会する、という話だ。
李徴はもともとは若くして官僚になった秀才だったが、野心から詩人に転身して失敗し、経済的に困窮した後に地方の下級役人に就いた。そこでかつて軽蔑していた連中の下につくことになり自尊心を傷つけられ、妻子を置いて消息不明となった。
翌年、官僚の袁傪が使いで旅をしていたときに近辺で噂になっていた人喰い虎と出くわすのだが、その虎は襲いかかってくるのではなく草むらに隠れ、人間の声で「あぶないところだった」と呟いている。その声で袁傪が、虎が李徴であることに気づくのである。
李徴は草むらに隠れたまま、虎となった経緯を袁傪に語った。
眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗まみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書の章句をそらんずることも出来る。その人間の心で、虎としての己の残虐な行いのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。
中島敦はこの山月記を執筆前にすでにカフカに着目しており遺稿集を読んでいたというが、カフカの『変身』になぞらえて『山月記』を読むのはあまり意味が無いと思う。
むしろ対照的に、『変身』では毒虫になったグレゴール・ザムザがそのこと自体になんの疑念も抱かない。虫と人間とを比べることもない。だからこそユーモアが生まれている不可思議な小説である。そもそも毒虫とはなんなのかを徹底的に隠していて、表紙絵の担当者にどんなに遠目からだとしても虫の姿を描くなとカフカ自身が注文しているほどだ。
対して『山月記』では虎になった理由を李徴自身が語っている。「虎」は「人間」との対比として意味を持ち「虎」とは何かを問わせる構成になっている。
人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。
「人間」である時間とはなにか、「虎」である時間とはなにか。読む人それぞれにとって違った解釈ができる。
自分にとっての「詩業」とはなにか。こういった問いは思春期の多感な時期に響くだけでなく、あまねく自意識の井戸に石を投げ込むようなものに思える。
自意識=「私を観て」という願い
虎となった李徴は袁傪に草むらの中からお願いをするのだが、この願いは3つある。
- 自分が作ってまだ世に出していない詩歌を記録して残してほしい
- 残された妻子には今日のことは秘密にし自分は死んだと伝えてほしい。できれば飢え凍えないようにしてやってほしい。
- 最後に百歩先の丘から振り返って虎となった自分を観てほしい。
そしてこれらはすべて自分自身のための願いだ。1は勿論、2についても李徴本人が述べているように、妻子を飢え凍えないようにしてほしいというのは最後の最後に取ってつけたような願いだ。
本当は、先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。
そして3についても、一度観られたはずの姿をあらためて晒したいという。
又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方を振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、以って、再び此処を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。
勇に誇ろうとしてではなく君のためだと言ってはいるが、そこには大きな自己欺瞞がある。
李徴はそもそも、詩業について「わずかばかりの才能」と自分で言いながら、才能が無いとは思い切れず、諦めきれていない人間だ。だからこそ1で未発表の自分の詩を伝録してくれと頼んだ。この期に及んでまだイケるかもとどこかで思っているわけだ。
自意識がつまりは「私を観て」であるとすれば、李徴は徹頭徹尾、自意識の塊であるのだ。虎になった自分さえも、あわれみながらどこかで手放せないでいる。観てほしい。虎になった自分を。
自意識の井戸から出てこられない。ひるがえって、私たちがこの話に自分自身を投影し、自分ごととして読んだときに、何を想うのか。
そう考えるとこの作品は現代に読んでもまったく古びていないものだと私は思う。
中島敦の作品は、他にも青空文庫で読める。
短いものでは下記2つが取り掛かりやすいのではないか。