小説には書けないあれこれ

小説家・山本 蓮華のブログです。触れた作品や文学・小説・音楽・アートなどについて考えたあれこれを書いていきます。

「僕は、人間を罰したい」〜 宮崎駿インタビュー集

 

『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』宮崎駿

『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』宮崎駿

宮崎駿はアニメーターである。

それは、映画監督であるということよりも先にアニメーションの作り手としての宮崎駿がジブリ映画を作ってきたということを意味している。

この本は、宮崎駿のそれぞれの映画製作当時のインタビューをまとめたものであり、クリエイターとして、監督として、そして人間としての宮崎駿の魅力が詰まったものになっている。私はこれを読んで、宮崎駿という人間はやはりまず何よりも「アニメーター」であるのだということを改めて考えた。

 

アニメーターとしての宮崎駿

ジブリアニメの個性は、まずはその「動き」の表現へのこだわりから生まれている。 

たとえば「風」は宮崎アニメの中で重要な表現方法だ。『天空の城ラピュタ』ではフラップターの疾走感の表現でも使われているし、塔の上にたったシータに吹く風でその高さを表現していたりする。特に、水との組み合わせによって風は形と速さを目に見えるように具象化される。この表現方法はジブリアニメのいたるところで使われている。

フラップター

フラップターの風が水で形象化される

また、植物が「育つ」ということも大きな「動き」を生んでいる。『となりのトトロ』で森が一気に育つシーンは典型であるし、『もののけ姫』では生死を司るシシ神のまわりで植物や森は生きているように動く。

フラップター

シシ神に触れて一瞬で芽生え枯れる植物たち

『マクベス』の『森が動く』っていう台詞を聞いて、もう驚天動地っていうかね、そのイメージはなんか壮絶だったんですよね。あと、海野十三っていう空想科学作家がいますけども(中略)古本屋で買って読んでたら、植物は高速度写真で撮ると、うわ〜って伸びたり縮んだり、みんな動いてるんだっていう世界があって。その二つがどうもね、きっかけとしてはよく覚えています。

 

インタビューを読んでいてまず気づかされるのは、この「動き」の表現の優先度が思いのほか高いということだ。本人によれば、自分は高畑勲とは違って基本的に「映画を損ねる」ものは落とすのだと発言しているが、この映画を損ねるものとはたとえば啓蒙的な説明描写であり、動きを中断してしまうカットであり、それはアニメーションの動きと流れを損ねるものと言い換えてもいい。

たとえば『天空の城ラピュタ』でラピュタ到着後に主人公二人が紐に繋がれたまま転げ回って喜ぶシーンについて、普通ならそこでキスをするのではという質問に「そういうことはしなくても、十分あの映画はやってる」「ハリウッド映画の悪い影響」と答えた上で、アニメーターとしての感触を述べている。

「そんなことよりあそこのシーンでは、シータが手の紐をほどくのに、お下げが邪魔だっていうので、パッと娘がお下げをはね上げた瞬間に、お下げに存在感が出てきたんで、そのほうが嬉しかったですけどね」

「ただ絵として描いてるときは存在しないんだけど、これは邪魔だってシータが触れた瞬間に、ようやくそのお下げがアニメーションとして存在するんですよね。」

頭にあるのはまず「動き」の表現自体のことだ。ほとんどそのことだけにこだわっていると言ってもいい。 宮崎駿は根っこからしてアニメーターなのであり、絵が動くということに対するこだわりが、あの躍動感あふれる映像を生んでいる。 

 

映画監督としての宮崎駿

一方で、宮崎駿は映画監督である。それは商業として売れるエンターテイメント作品を締め切りに間に合わせて仕上げないといけないということを意味している。

わかりやすいのは『風の谷のナウシカ』だ。この作品の原作が宮崎駿本人の描いた漫画であり、映画とは内容も結末も大きく異なることはよく知られている。たとえば腐海は、人間によって汚染された世界を浄化するために生まれた自然の自浄作用であるように描かれているが、原作では腐海もまた人工物であり旧文明の科学である。

『風の谷のナウシカ』

『風の谷のナウシカ』

ジブリの作品を環境破壊に対する啓蒙として観る者もいれば、そこに現れる人間観によって哲学的な解釈をする者もいる。『ナウシカ』は漫画版とともに特にその解釈にさらされることが多い作品だが、私は『ナウシカ』の根っこは次の発言に集約されていると思う。

僕は、人間を罰したいという欲求がものすごくあったんですけど、でもそれは自分が神様になりたいんだと思ってるんだなと。それはヤバイなあと思ったんです。

根底にあるのは人間に対する「怒り」だ。それは王蟲の怒りそのものであり、人間は酸の海と森の毒に囲まれながら、それでも戦争を続ける愚かな存在として描かれている。人間に対する「懲罰」は怒り狂った王蟲の群れにより風の谷を滅ぼさせる手前まで来た。

だが、宮崎駿は王蟲の群れを止めざるを得なかった。自身が大きな影響を受けたという手塚治虫を引き合いにして、結末について次のように語っている。

僕は通俗文化の担い手の一人だっていう自覚が強烈にありますから。これ手塚さんだったら、ナウシカを殺すなって思ったんですよね。それで、王蟲がナウシカを連れて森に去っていくっていうので、みんなで泣くっていう映画を作るなって。僕はそんなことしてたまるかって思いましたからね(笑)

この自覚は「指針」とも言え、同時に「制約」或いは「責任」と言い換えてもよいと思う。

結果として、映画版ではナウシカが一度死んだ後に蘇るという非常に宗教的なカタルシスが敷かれた。王蟲の群=自然の怒りと、トルメキア軍=戦争を繰り返す人間たちとが、ナウシカ=神の子の仲介により平和的に和解するという、高畑勲と鈴木敏夫に提案された結末を呑んだ形となった。

この時、宮崎駿は何よりもとにかく「王蟲を一匹も殺したくない」と強く思っていたという。それはつまり「怒り」を売ることだけは許せなかったということなのだろう。

だが、その「怒り」により振りかざした拳を「懲罰」として振り下ろしきることもまた出来なかった。通俗文化の担い手としての「自覚」からだと言うが、それはまるで葛藤の末の決断を「言い訳」しているようにさえ見える。

映画の制作としてはスケジュール通りに「物語」を閉じないといけないことで「宿題が残った」結末になったと宮崎駿は語っている。

 

ヒューマニズムの拒絶と人間の肯定

この「宿題」はナウシカとほぼ同じ構造をした『もののけ姫』によって返答がされている。『もののけ姫』では、アシタカが一番最初に冒頭で呪われることに大きな意味があると語っている。

不条理に呪われないと意味がないですよ。だって、アトピーになった少年とか、小児喘息になった子供とか、エイズになったとか、そういうことはこれからますます増えるでしょう。不条理なものですよ 。

アシタカが受けた呪い

アシタカが受けた呪い

『もののけ姫』では「懲罰」から「肯定」へと宮崎駿の考え方がシフトしている。人間には汚い面もあれば良い面もある。サンは「人間を許すことはできない」と言い、アシタカは「それでもいい」と答える。森で暮らすサンに対して、アシタカはタタラ場で暮らすことを選んだ。

人間は愚かで、どうしようもない。だが、神からの視点ではなく、自分自身の問題として引き受け、呪いを背負いながら、それでも生きていくのだという態度は、宮崎駿自身が辿り着いた選択でもある。

その選択はヒューマニズムとは最後まで重ならないものだ。

僕は一度、手塚治虫にインタビューしたことがあるんです。で、ヒューマニズムについてちらっと話したら怒りだしちゃいましてね、手塚さんが。「もう、やめてくれ!俺についてヒューマニズムとか言うな、とにかく。俺はもう言っちゃ悪いけど、そこらへんにいるニヒリズムを持った奴よりよほど深い絶望を抱えてやってるんだ」と。「ここではっきり断言するけど、金が儲かるからヒューマニストのフリをしているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切やめる」と、もういきなりシリアスな顔をして怒られましてねえ。

宮崎駿は同時にディズニーのヒューマニズムを「あの偽物加減」と言っており、ヒューマニズムという言葉を『ああ、楽しかったな』と終わるしかない気楽な思想という程度の意味で使っている。呪いを背負わない、或いはいつか呪いが必ず解けてくれる世界の思想だ。

上の発言はむしろそう言った気楽な思想から手塚治虫を擁護しているように見えるが、宮崎駿自身、このヒューマニズムを自分から遠ざけようとして作品を作ってきたと言う。

ヒューマニズムがつまりは人間を信じるということであるとすれば、彼はやはりヒューマニストではない。人間は神にはなれない。自分自身もまた、神にはなれない。だが、それでも呪いを背負った世界を肯定しなければならない。 

同時多発テロのことを友人と話していて、『いやあ、これはエライことになりましたな』『こんな大量消費のバカなことやってて文明はめちゃめちゃになります』って話してたんですけど、その会話の席にね、もっと駄目になるとわかっている日本で生きていかなきゃいけないその友人の娘がチョコチョコっと歩いてきたらね、この子が生まれてきたことを肯定せざるを得ないよねって、とにかくそれだけは否定できない(中略)この子が生まれてきたことに対して、『あんたはエライときに生まれてきたねえ』ってその子に真顔で言ってしまう自分なのか、それともやっぱり『生まれてきてくれてよかったんだ』っていうふうに言えるのかっていう、そこが唯一(笑)、作品を作るか作らないかの分かれ道であって、それも自信がないんだったら僕はもう黙ったほうがいいなっていうね。

それは啓蒙ではなく、懲罰でもない。人に喜ばれる絵草紙を作り続ける道だ。このインタビュー集には、そこに至るまでに通ってきた渓谷や台風の跡が残っている。風が次にどこへ吹くのかが楽しみになる一冊だ。

 

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡 (文春ジブリ文庫)

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡 (文春ジブリ文庫)

  • 作者: 宮崎駿
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2013/11/08
  • メディア: 文庫
 

 


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天上の花、地上の月 (民明書房)

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