花は、生殖器である。
ロバート・メイプルソープの写真はそのことを私たちに思い出させる。女性器は花に喩えられることがあるが、そもそも逆であり、花こそが性器なのだ。
メイプルソープの写真の中には花以外に男の裸体も女の裸体もある。だが、花を撮影した写真がもっとも卑猥であり、エロティックであり、心を揺さぶられる。
花を撮ることがポルノにさえなるということを彼は発見したのだった。
私はこの写真に女性性と男性性を観る。
モノクロに色彩を削ぎ落とされた写真は生死の境を見せるようになる。物の輪郭がはっきりと際立ち、時間が止まる。顕微鏡で拡大したような静かな世界で受精の瞬間を観るようであり、生命の神秘に立ち会っているようである。そしてその瞬間とは、二つのものが死に、一つのものが生まれる瞬間である。
固い頭と細長くイビツな茎のフォルムには、陰茎のイメージとともに蛇やナマズのように入り込む生き物のニュアンスがある。
花びらの包みは隠しているようでもあり、油断しているようでもあり、忘れているようでもあり、受け入れているようでもある。
ランを正面からとらえた写真は、事の直後を想起させる。余韻と重みを残して撓垂れた射精直後の陰茎と、受けとり終わったあとに下唇で見送る女陰とを思い出させる。
メイプルソープの写真を観ていると、私たちがどれだけ形を抽象して物事を捉えているかということ、そしてどれだけ色で区別しているかということに気づかされる。
色を捨てるとたちまちに現実と非現実の垣根を失う。
この写真は、私の胸をつかえさせる。細長い西瓜のなかに胎児を観てしまうのは私だけではないと思う。
禁じられたものへ侵入するもの。そして侵入される側。そこにはバタイユ的なエロティシズムがある。
女の性、男の性、そしてそれらが交わり連続になる瞬間に、生き死にもまた同居することが思い出される。
メイプルソープが四十二歳で夭逝してから今年でちょうど三十周年にあたる。
写真集をちょうど見返しながら思うことは、私たちはなぜ花のことを綺麗だと思うのかということだ。
花を見て美しいと言うとき、私たちは何を観ているのか。どういった心に根ざしているのか。
メイプルソープの花はいつもそのことを私に思い出させる。