小説には書けないあれこれ

小説家・山本 蓮華のブログです。触れた作品や文学・小説・音楽・アートなどについて考えたあれこれを書いていきます。

存在とは何か、人とは、孤独とは、天使とは 〜 リルケ詩集

 

リルケ詩集 高安国世訳

リルケ詩集 高安国世訳

詩集というのは、心を動かされるたったの一行でも見つかれば、それで充分であると私は思う。私は詩集を読むときには、なにか宝探しか、珍しい石を探して歩くような気持ちで、このあたりには無さそうだとか、このあたりは落ちていそうな感触がしていると思いながら読んでいく。

だが、その詩人によっては、金鉱にあたったような、ここは私のための川原だという気持ちになる詩人がある。リルケは私にとって、そして多くの人にとってそういう詩人だと思う。

 

リルケの初期の詩はロマン主義的であると言われる。言ってみれば「ロマンティック」だ。 

 

初期の詩集を引用してみよう。リルケの詩は、すこし甘く、甘すぎず、読んでいて思わず口にしたくなるような言葉のぶつかりがある。

私の目の光を消してください、
私はあなたを見るでしょう、
私の耳をふさいでください、
私はあなたを聞くでしょう、
足がなくても私は
あなたのところへ行くでしょう、
口がなくても私はあなたを呼び出します。
私の腕を折ってください、
私はあなたを抱きとめます、
私の心臓で手のように。
私の心臓をとめてください、
私の脳髄が脈打つでしょう、
私の脳を燃やしてしまっても
私は血の流れに
あなたを浮かべて行くでしょう。  

(『時祷詩集』より)

 

あなたは未来です、永遠の平野の上の
大いなる東天紅(しののめ)です。
あなたは時代の夜のあとの鶏鳴です、
露です、朝の勤行です、少女です、
見知らぬ男です、母親です、死です。

あなたは変身する姿です、
常に孤独に運命の中からそびえ立つ姿です、
歓喜されることもなく、悲しまれることもなく、
原始の森のように名前もなく。

あなたは事物の深い精髄です、
その本質を示す究極の言葉はもらさず、
他人(ひと)には常に異なる姿をあらわします。
船には岸、陸には船として。

(『時祷詩集』より)

 

私の生はどこまで届いているのだろう、
だれか私に言うことができるだろうか。
嵐の中をも私はさまよっていないだろうか、
波となって私は池に住んではいないだろうか、
そうして私自身、あの、春の寒さにふるえている
蒼ざめた白樺の樹ではないだろうか。 

(『初期詩集』より)

 

これに対して『新詩集』以降は「事物詩」と言われる。物や事を言葉にする試みだ。

リルケは、彫刻家ロダン(『考える人』を彫った)と出会い、彼の私設秘書になってロダンの手仕事を観察しつづけた。彼はそこで、ロダンの彫刻が物自体としての「存在」を獲得していることに感銘を受けた。物を作るということは、愛情の吐露ではなく、説明ではなく、「存在」自体を作り出すことだ。彼は、セザンヌにも同じ創作方法・創作態度を見出している。

リルケはそこから、叙情ではなく「事物それ自体を存在させること」を目指して詩を書くようになった。

少女の嘆き

私たちがみんなまだ子供だったころ
長くひとりでいたいと
ねがった心はやさしいものだった。
他の人々には争いの中に時が過ぎて行った
そしてだれにでも自分だけの片隅があり、
自分だけの近さ、遠さがあり、
一つの道、一匹の獣、一つの絵があった。

そして私は考えていた、この人生には
いつまでたっても、ひとりだけの
思いにふけることが許されるのだろうと。
私は私自身の中でこそ
一番大きな存在の中にあるのではないだろうか。
私自身のものがもう子供のころほどに
私を慰めることも理解することも
望まないのだろうか。

とつぜん私は放逐されたもののようになり、
私にはこの孤独があまりにも
大きすぎるものになって行く、
私の胸の二つの丘の上に立って
私の感情が、はばたく翼か、
さもなければ終焉を求めて叫ぶとき。

(『新詩集』より) 

 

詩人の死

彼は横たわっていた。彼の持ち上げられた顔は
高い枕の中で蒼ざめ、
何ものも寄せつけないようだった。
世界と、世界についてのあの知恵が
彼の五官からもぎ取られ、
かかわり知らぬ四季の流れの中に
もどって行ってから。

生きた彼を目にしていた者らは
彼があれらすべてのものと
どんなに一体であったかを知らなかった。
あの谷、あの草地、あの川や湖、
すべてがそのまま彼の顔だったのだ。

おお彼の顔はあの限りない広さそのものだった、
それが今なお彼の方に近づき、
彼を求めようとする。
だが今や不安な様相を示して
死滅して行く彼のマスクは、
空気にふれて腐って行く果物の
内側のようにやわらかく、開いている。

 

海のうた
 カプリ、ピッコラ・マリナ

海からの太古の風、
夜の海風よ、
おまえはだれのために吹くのでもない。
こんな夜ふけ、ひとりめざめている者は、
どんな思いで、この海風に
耐えねばならぬことだろう。
海からの太古の風、
それはただ古い巌(いわお)のためだけに
吹くのかもしれぬ、
遠い彼方から
ただ茫漠たる空間を吹き寄せて。

ああ崖の上の、月かげに照らされて
すくすくと枝を張る無花果の樹は、
どんなにおまえを身に沁みて
感じていることだろう。

(『新詩集』より) 

 

驟雨(しゅうう)の前

とつぜん園のすべての縁から
何かわからぬ或るものが取り去られる。
雨がもう窓の近くまで迫って、
押し黙っているのが感じられる。
ただ、慌ただしく、はげしく、

林の中から雨告げ鳥の啼く声がきこえる。
何となく思われるのは聖ヒエロニムスのこと。
この一つの声から、そんなにも孤独なもの、
ひたすらなものが湧き出してくる。
やがてこの声を

ふりくだる雨だけが聞くだろう。広間の壁に
かかった絵がみな私たちから遠のいてしまった、
私たちの話し声を聞くことをはばかるかのように。

(『新詩集』より) 

 

別離

別離とは何かを私は痛いまでに味わった、
そして今もありありとそれを感じる、
暗い耐えがたいむごい或るもの。
それは美しく結び合わされたものを
もう一度示し、さし出し、
そして引き裂いてしまう。

私はすべもなくただ見守るのだった、
私を呼びながら、私を去らしめ、
後に遺る(のこる)ものを。
何かしら女という女がそこにこもっているような
それでいて小さく、白く、それはただ

もう私にはかかわりなく、かすかに
ふり続けられている手かもしれぬ ー もう何と
言っていいかわからないもの、恐らくそれは
郭公鳥(かっこう)がふいに飛び立ったあとの
一本の李の樹。

(『新詩集』より) 

 

恋歌

私は私の心を
あなたの心の奥底でふるえるものが、
すぐ伝わらない
どこか見知らぬ、ひそかな場所に。
しかし私たちに触れるすべての物は、
すぐ私たち、あなたと私とを
一つに結び合わせてしまうのです、
二つの弦から一つの音を引き出す
ヴァイオリンの弓にも似て。
どのような楽器に私たちは
張られた弦なのでしょう、
どんな奏者が私たちをひいているのでしょう。
ああ美しいうた。

(『新詩集』より)

テーマの選び方はまだ、ロマン派であると言えるかもしれない。だが、そこには説明を超えて事物を存在しからしめようとするリルケの意思が強く見られる。

 

ここから先の到達点として、リルケの二大代表作とされている「オルフォイスに寄せるソネット」と「ドゥイノの悲歌」とは、引用するよりも本編を読んだ方がいいので割愛する。

そこでは、音楽のように軽やかさと、事物の存在としての重みとが両立するような詩が書かれている。この書では、他にも後期の詩がおさめられており、幅広い時期のリルケ作品に触れることができる。

愛していた人、悩んでいた人、みんな
冬枯れる園に散る木の葉のように
吹き散って行った。
しかしあなたの歩みやお祈りは今もなお
残っている。絹の壁掛のなかの姿のように。
そして色は静かに、あざやかに。

まざまざと目に見える、
あなたの目の牧場(まきば)、
その上を駘蕩と移って行く春の日ざし、
あなたの幸福の、大事にされた額の飾り、
そしてあなたの悩みの国のはるかな道を前に
ぽっつりと立つ誇りの葡萄の門。

しかしどの絵の上にも、どこでも色あせず、
白い、いつも変わらぬ着物を着て、
目印なしでもひとめで知れる、
人の心をしずめるあなたの愛の姿、
ほっそりと、何かをわたそうと身をかがめて。 

(後期の詩より)

 

リルケの詩が、世界中で老若男女に広く愛されている秘密のひとつには、彼の詩の変遷がそのまま人生のようであり、一人の人間のさまざまな時期に呼応できる許容力を持っているからではないかと私は思う。多感で叙情的である若い時期を経てから、物自体に関心を向けるようになり、自然へと畏敬を抱くようになる、そんな人生の移り変わりに合わせて、彼の詩集は姿を変えていく。

リルケの詩集は、繊細な叙情と不安とが織り混ざった抒情詩でもあり、彼の存在論とでもいうべき事物の秘密が書かれた書でもあるのだ。彼の歩いた広さ遠さが、読む人の心を打つ詩を、その人に必要なタイミングにあわせて置いてくれるようであるのだ。

 

一つ大切なことがある。

外国語で書かれた詩の翻訳というものは、翻訳されたというだけでもはや変質している。言葉には形と色と重さがあり、感触があり、味がある。それが海を渡るときにほとんど全く別のなにかに変わってしまうと言っていい。

そのため、詩を読むには(原語のまま読むのでなければ)、自分にあった翻訳者と出会うことが重要だ。ほとんどそれだけが重要だと言ってもいい。私は、リルケの詩においては高安国世訳が自分にあっていると思っている。別の翻訳で読んだときには全く響かなかった一編が、彼の翻訳によったときに、別の詩と思えるくらい感動するものになっていたからだ。

だから、訳者が変わればそれは別の本だと思った方がいい。「響かない」より手前で言葉が「入ってこない」と思ったとしたら尚更、別の訳者のものを探すのがよいと思う。

 

最後に。

もし、いま読んでみても感銘を受けなかったとしたら、頭の片隅にしまっておこう。一年後、五年後、十年後、三十年後、ふと開いてみたときに、あなたのために書かれた詩がそこにあると思う瞬間が来るかもしれない。

リルケの詩には、人生の長さを受け入れるだけの広さがある。

 

リルケ詩集 (岩波文庫)

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  • 作者: リルケ,高安国世
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/02/17
  • メディア: 文庫
 


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天上の花、地上の月 (民明書房)

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